●嗚呼、菜食主義
 私のベジタリアニズムに対する考えを、以下に述べたいと思うが、他のベジサイトと同じ調子では、私のサイトらしさが失われるので、ここはむしろ、ベジタリアンの人達の世界で語られている常識や美談に対して、徹底的に批判のメスを入れていこうと思う。
 これは、ベジタリアニズムに対する懐疑論者に対してよりも、むしろ“ベジタリアン”達に対する啓蒙活動になるかもしれないが、ベジタリアンの中には、私の文章を読んで、不快な気分になる人も続出する事だろう。それならそれで、私は一向に構わない。
 むしろ、他人を怒らせるくらいの事を言わなければ、その人は意味のある事は言っていないと思うし、数十人の人を怒らせる可能性がある、インターネットというツールは、私にとって抗しがたい魅力があるのである。

 さて、それではまず、以下のエピソードを読んでもらいたい。
 菜食主義者で有名なトルストイは、ある日、肉の好きな義妹が尋ねてきた時、妻が留守だったので、トルストイ自身が夕食を作る事になった。
 そこでトルストイは、ひな鶏を椅子の脚に縛り付け、義妹用のナイフとフォークの横に、大きな肉切り用の包丁を置いておき、こう言った・・・。

「君は生き物を食べるのが好きそうだから、この鶏を用意したんだ。だが僕は殺しをやりたくない。この包丁を使って自分で殺してくださらんかね」

 義妹はすぐにひな鶏を放し、そして全員が楽しく、野菜と果物のベジタリアン料理を食べたという。めでたしめでたし・・・。

 恐らく、ベジタリアンの人達の間では、永遠に語り継がれるであろう、見事な美談である・・・。
 おいおい、ちょっと待ってくれ!
 もしこの義妹が、ランボーかダーティー・ハリーで、トルストイが、「・・・殺してくださらんかね」と言った後、間髪いれずに、持っていたマシンガンか44マグナムをぶっ放し、ひな鶏を蜂の巣にした後で、「包丁なんて七面倒くせーもんよりも、これで十分だぜ。ククククク・・・」と言っていたらどうだったのだろうか?
 もしかしたら、トルストイは、その場で出来ないばく転をして気絶していたかもしれない。

 多くのベジタリアンは、人間は殺生をする事に本質的に抵抗感を持っていると考える傾向があるが、逆説的には、人間ほど暴力や殺生に“のめり込む”種族も珍しいのである。
 よく、映画などを製作するクリエイターは、「セックスと暴力は、人間の本能である」として、暴力的な描写や性描写に対する、“表現の自由”を声高に叫ぶが、世の中には暴力が溢れていて、むしろ、それを法律で規制している事から、こうしたバーチャルな世界で気分を開放しているという行動がある事も見逃せない。
 皆さんも、映画を見ていて、そんな事を考える事もたまにあるだろう。
 例えば、私の親友の木鶏などは、『戦国自衛隊』という映画が大好きらしいのだが、この映画の主人公は、現代から戦国時代にタイムスリップした後、現代に戻りたいと思うどころか、戦国時代に“どっぷりはまっていく”という内容で、主人公は、現代社会では出来なかった“殺戮”の虜になっていく様が、この映画の魅力だった。

 ところで、私はことあるごとに、「我々日本人も、100数十年も前だったならば、日本人は肉など食べず、ほとんどが菜食的な食生活だったのに・・・」と語っているが、開国以降、西洋の文明がどっと押し寄せ、西洋に追いつけ追い越せで、肉食文化も、もの凄いスピードで我が国に浸透していった事は、歴史上の事実である。
 ところが、この勢いがあまりにも強烈だった為に、明治中期には、菜食主義を肉食の国から“逆輸入”するという現象があらわれ、皮肉な事に、これが“菜食主義”と訳された為に、日本人の菜食観をますます偏狭にしてしまったのである。
 田舎に住むおじいちゃんおばあちゃんが、伝統的な“田舎料理”を無意識に食べていても、多くの日本人が“菜食主義”という言葉に対しては、主義という名の大義名分に臆してしまうのである。
 つまり、「和食を食べよう」は受け入れやすいが、「菜食主義をつらぬこう」は抵抗感があるのである。
 こんなものは言葉のあやに過ぎないが、案外見落とされがちで、実は最も重大な障壁であろう。

 私が考えるに、肉食が問題になっているのは、現代という時代が、“エスカレートの時代”だからなのだと思う。
 頭のイカれた経済学者や、おめでたい楽観主義者は、それを“進歩”だと呼ぶ傾向があるが、私に言わせれば、それは“進歩”ではなく、ただの“エスカレート”である。
考えてもみて欲しい、1903年にライト兄弟が初めて空を飛ぶまで、人類は空を飛んだ事がないのである。
 ところが、やっと来年に100年経つというのに、現代では、ライト兄弟が初飛行に成功した飛行距離よりも全長の長いジャンボジェット機が、世界中を飛び回っているのだ。
 しかも、ライト兄弟が初めて空を飛んでから、“たったの”50年たらずで、人類は月にまで行ってしまったのである! なんというエスカレートのスピード!
 そんなこんなで、菜食主義が語られる時、動物を殺すとか殺さないとか、非常に根源的な話題が上る事が多いし、「あなたは自分の手で動物を殺せるのか?」と言った問いも、もはや常套手段になってしまっているが、「殺せますよ、なぜなら、他人や機械が全部やってくれるから」とあっけなく答えられてしまい、こういった、個人が殺戮に関わらず、関わっている人達はどこまでも“エスカレート”してしまっている事こそが、問題の本質なのである。

 さて、ここで、更にベジタリアンの人達が憤慨する話もしよう。
 これは私にとっても不利な発言であるが、「それは、一般の人達が肉食を控えれば、問題の解決に近づくのか?」という根源的な問題である。
 私は、ことあるごとに、環境問題に関心があれば、寄付する事よりも、一年間に食べるハンバーガーの量を半分に削減する方が、無理なく貢献できると肉食をする人達に対してさとしているが、実のところ、この意見も“まゆつば”である。
 多くの肉食を“普通に”している人達が懐疑的に思っているように、先進国に住む一部のブルジョアが菜食主義者になったところで、地球の裏側に住む人達が救われるなどと考えるのは、おめでたいにも程がある。
 この点に関して、スーザン・ジョージという人は、“ハンバーガーを1つ減らす主義”を批判しているが、例えそれが道徳的な行為だったとしても、実際に金銭的な援助がなければ、何の意味もないのである。

 例えば、エスキモーの人達は、失業保険で暮らしているような、貧しい人々である。
 そんなエスキモーの人達は、1950年に、唯一の食糧源のカリブーさえも餓死してしまうという、深刻な飢餓に襲われた。
 この時に、オタワ政府は、エスキモー達に救済の為の乾燥豆類を提供したが、肉食が常食であるエスキモーの人達は、豆類を食べる事が出来なかったのである。
 なぜならば、そもそも、彼らは豆を調理する道具など持ち合わせていなかったからだ。
 ところが、このようなエスキモーの人達の苦い経験から、1984年には、エチオピアの飢餓を救う為に、貧しいエスキモーの人達は、5万ドル相当の援助をしたのである。
 ものを言うのは、“現金”なのだ。

 実の所、私はこうした事実を冷厳に受け止め、自分自身は菜食を実行しつつ、将来的には、地球の裏側に住む人達に対して、“現金”という名の、直接的な援助をした方がいいのではないかと考えているのである。
 私がたびたび、金儲けや、ヴィトンやシャネルに興味のない人達に対して、「株で資産を築け!」と訴えているのは、ベジタリアンという名の、利己的というよりかは、利他的な人の中から、私の知識を利用して資産家が輩出され、資産家になった時に、ヴィトンやシャネルに興味がなく、イージーマネー(あぶく銭)を持っていれば、それをそのままそっくり貧しい国々に寄付してしまった方が、ガタガタ菜食主義について語っているよりも、よっぽど効果が大きいと企んでいるからである。

 最後に、数多いベジタリアンのサイトの中で、こんな事を提唱しているサイトが、1つくらいあったところで、大した事でもないだろう。
 私は、常識が恥をかかされる話が大好きであり、ベジタリアン達が口にする美辞麗句など、「クソ食らえ!」で、もっとしたたかに人類の未来について考えていきたいと思うのである。


2002年3月6日
やまちゃん

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