やまちゃんの辛口ベジタリアン
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高尾山にて 2007年11月25日

★トリップ
 皆さんは、インターネットのホームページやブログや掲示板などで他のベジタリアンの考えていることなどを読んで時間を潰していることと思うが、インターネットで私が発見したとあるベジタリアンは、ベジタリアニズムに対して想いを寄せることで、現実から逃避することが出来、更には、適当な美辞麗句(きれいごと)を書き立てては自己肯定しているようだった。彼は、恐らく彼自身は否定するであろうが、悲観論者であり刹那主義者である。そして、驚くべきことに、そんな彼も低レベルなカルトを作り出し、微弱なカリスマ性をも発揮していた。しかし、私にとって更に驚くべきことは、『彼』とは、私自身のことだったのである。

 プライベートタイムに空想にふけることは、分裂症患者の特技である。私は幼少期から孤独を愛し、空想を友にしてきた。私の考えとは“絵空事”であり、何の価値もない。従って、空想を楽しむ私にもあまり価値はない。しかし、分裂症患者は自分の存在価値を見出す為に、現実に対しては、どこまでも懐疑論者であり傍観者である。現代風に表現すれば“さめて”いる。
 分裂症の私は、どうやら“さめて”いるようだ。あまり体を動かすのは好きではなく、行動力を発揮するには“ハイ”な精神状態を作り出す努力が必要であり、メンドーである。ところが、体を動かさないと“間”が持たないので、分裂症患者にとっては空想は最良の友だが、時間(=現実)は敵である。
 私はもちろん“ビョーキ”だが、自身の症状を分析し、精神分析医の手を借りずに自身の力で病気を治癒するように努めている。しかし、この治療もかれこれ開始してから20年も経過してしまった。当然病気は完治していないが、“薬”は発見している。それは、患者には敵だが、治療には良薬である“時間”である。つまり、時間が問題を解決するだろう。
 しかし、ガンの患者がガンを恐れるように、私は“時間”を非常に恐れている。恐らく常人には全く理解出来ない、分裂症患者独特の恐怖であると思うが、私は時間がとても恐ろしい。
 分裂症患者にとっては、空想は麻薬であり、空想という名の麻薬を使うと、時間という名の現実からトリップする事ができる。そして、トリップ中は時間を忘れることが出来るのだ。

★イリュージョン
 私は以前、私の中の信仰心とは、この世に生を受けたことに対する感謝の気持ちであるとどこかに記述したことがある。しかしこれは、分裂症患者にとっては、“お笑い草”とも言える美辞麗句でもある。なぜならば、分裂症患者は時として、鏡に映る自分自身を、本当にこの世から抹殺してしまいたくなるような衝動に駆られるからである。
 これは病気の症状の中の箇条書きのひとつであるが、分裂症患者は、現実よりも幻想的空間を好むので、現実世界に身を置くのがつらくなるのである。
 芸術家の中に分裂症気味の人が多いのもこれが理由だが、彼らは時々、凡人を寄せ付けぬ、なんとも言えないロマンチシズムを醸し出す。これが分裂症気味な人でも、凡人から一目置かれ、ほんの少し存在を許される結果となっている。
 しかし、当の分裂症患者にとっては、そんなことは意にも介さず、あくまでも現実逃避と孤独を愛す。
 分裂症患者は、ほうっておけば人畜無害だが、汗と泪の体育会系の人達から見れば、鼻もちならねぇ〜むかつく存在のようだ。従って私も、根性論的体育会系の人達が苦手である。
 私は汗も泪も根性も好まない。好むのはクールでドライな懐疑論と、それを盾に逃げ込んだ幻想の世界である。

★スピリッツ
 現実逃避を苦しく弁護すれば、それはとてもスピリチュアルな世界である。
 汗と泪と根性で現実に対処することは、とても唯物的である。
 私が自身の病気を治癒するのに20年以上もかかっているのは、実は自身の精神性にナルシシズム(自己愛)を感じていることが大きい。実は分裂症患者が自殺せずに生きていけるのはこれが理由である。そして、病気が完治しないのもこれが理由でもある。
 分裂症患者が現実の世界を見渡せば、そこには刹那的、悲観的な考えが生まれ、自身の存在を否定してしまうが、幻想の中に身を置けば、自身の精神性に満足し、自己の存在を美化し、傲慢な気持ちと共に自己の存在を肯定するのである。
 つまり、思考が分裂している訳だが(だから病気なのである)、私はこの相反する2つの感情が同居する自分をそれ程嫌っている訳ではなく、むしろ分裂を楽しんでいるフシも有るようなのだ。

★ミックス
 実は唯物と精神は、分裂させるよりも“融合”させることが大切なのである。
 これが『中道』の教えだが、人間は目に見える世界や、目に見えない世界のどちらに傾きすぎても片手落ちであり、双方を高次元で融合させることが、人生の醍醐味のようである。
 私の目標は、分裂を楽しむのではなく、融合を楽しむ人間になることである。難しく考えると、この問題はとても大変そうで、足がすくんでしまう。
 しかし、簡単に考えれば、現実に対して正直にアプローチすることが、『中道』への近道のようだ。
 私の正直とは何であろうか。
 私の正直とは、『道』であり『徳』である。私の短い人生経験によれば、傲慢は足元をすくわれ、うぬぼれの高さも無益である。私の性格の欠点は、『ひとりよがり』『うぬぼれ』『自画自賛』であるが、これは全く『道』から外れた愚かな行為である。
 しかし、現実に対する適応能力にかけた私は、現実の世界において、これらの悪しき面が噴出し、嫌悪感さえ抱いてしまう。現実の私は、『不道不徳』の極めのようである。
 またまた、私の短い人生経験によれば、自分が正しいと思えば、かえってものの是非が分からなくなる。そういった場合は、自己の精神を平静に保ち、スピリチュアルな世界に身をまかせ、自身の精神に問うのである。すると心の奥底から正直な自己のスピリッツが噴出してくる。
 これを『無為の教え』『不言の教え』と言うのだろうか。

★マウンテン
 私は高尾山の山頂で、ふと、この文章を何の脈略もなく書き始めた。
 普通、文章を書くときには、何か他人に伝えたいことがあって、つまり主観が先に出来てから文章をまとめるが、この文章は、まるで日記のように、自己の心の整理が目的で書き始めた。
 他人とコミニケートしたり、文章を書いていると、信じられないような発見があり、驚くものであるが、私はその効用を知っていたので、文章を書くのが好きである。
 それはさておき、山の中にいると、自然の偉大さがよく分かる。自然は万物を育み養っているので、とても偉大であるが、だからといって自分が偉大だとは思っていないところが更に偉大である。山を見ていれば、自然よりも偉大な人物などいる訳がないという心境に陥る。
 山は神のようであり、とても霊妙である。全てを支配しているようだが、支配者ヅラはしていない。私は山から何かを学ばずにはいられない。
 他人が汗と泪と根性で格闘しているのを尻目に、山の中でボーッとしたり、お昼寝して空想にふけっていると、思いもかけなく正直に生きる自分に出会うことが出来る。
 分裂症患者が空想にふける時、それは精神分析医やなんかからは、現実逃避というレッテルを貼られるが、実は人間の欠点をなくし、唯物的傲慢な人間が、無為自然に帰れる時でもある。そして、人が現実に対しても無為自然でいられる時こそ、先の高次元な融合が実現できるのかもしれない。
 ところかで、無為とは何もしない事なのだろうか。私の足元をウロチョロするアリさんや、その辺に生えている植物を観察すれば、無為とは、その行動にワザとらしさや無理がないことであると思われる。彼ら、動物、植物、虫達は、とても自然であり無理がない。彼らは自然と正直に生き、かと言って現実からも逃避していない。そう考えると、人智のみが愚かだという気がしてくる。
 山の中の私から見れば、人智こそがイリュージョン(幻想)だと思う。
 山の霊気と合流し、スピリチュアルな自分を昇華させると、人間の正直が生まれてくる。
 人間がどれほど幻想的かって? 例えば、物欲が旺盛な人でも、指が6本あればいいと思う人はあまりいない。つまり、我々の欲も想像の産物であり、幻想である。そう考えると、欲深い人は想像力が旺盛なのかもしれない。しかし、それはスピリチュアルな正直ではなく、人智であり、イボのように余計なものである。

★エピローグ
 私は、昔の賢者が、『中道』の教えを、誰かに教わることなく、忠実に実行していた人だと、勝手に予想し、彼らに想いを寄せていた。
 しかし、私が現在を生きる現代人に戻らなければと思ったのは、私の周りを見渡すと、私だけが“変”だからであった。そこで私なりに現実逃避ではなく、現実“融合”を考える為に高尾山に登った。(登ったら考えたというのが本当は正しい)
 山頂では、遠足にやってきたと思われるお子ちゃまがワイワイやっていたが、私は不思議と心を平静に保ち、知らぬ間にお昼寝までしていた。そして、この時の無理のない自分が、私はとても気に入った。
 皆さんも、自分の行動にわざとらしさや無理を感じたら、高尾山に登ることをお勧めする。
 自然と自分とを融合すると、不思議と現代の都市生活の方が幻想に思えてくる。本当の現実に生きる為には、人間は人智を捨て、無為自然に帰らなければならないのかもしれない。