●はじめに●
皆さんはoptimist(楽天家)だろうか? 仮に楽天家だとして、私の事を悲観論者だと思うであろうか? 私は事業にも失敗し、人生の伴侶にも恵まれない人物であり、現在でも借金を抱えていて、人性はバラ色というよりも、お先真っ暗といった感じがしないでもない。そんな私の事を周囲が悲観論者だと形容しても、返す言葉もないのが現状である。
我々は日々を無難に過ごしているが、普通の人は現代社会に対し、あらためて危機感を感じる事はあまりない。スイッチを入れれば、どこからともなく電気は送られてくるし、スーパーやコンビニに行けば、食べ物はいくらでも手に入る。息を吸えば空気はそこにある。我々はこのような日常に慣れきってしまい、今さら日常生活に疑問を抱く事はない。その為、むしろ我々の興味は、夢や希望と言った願望実現に向けられている。
皮肉な事に、自らの願望実現にとても懐疑的になってしまった私は、スイッチを入れる事にも、モノを食べる事にも、空気を吸う事にも、全て懐疑的になり、危機感をつのらせている。つまり私は、何事にも神経過敏になってしまったのだ。こうして、私はスイッチとか食べ物とか空気とか、普通の人なら気にもとめないモノが、人生で最大の関心事になってしまった。これではまるで子供ではないか!
思うに、私は子供の状態に帰りたいのかもしれない。夢や希望という大人達の吐く美辞麗句にウンザリしているのかもしれない。それよりも自由気ままに野原を駆け回りたいのかもしれない。私の憧れは『アルプスの少女ハイジ』なのかもしれない。
こう考えると、夢や希望といった言葉は、大人達による洗脳だという事が分かる。子供はただ無邪気に走り回っていれば楽しいのであり、走り回っていれば、すでに願望は実現されているのだ。
我々大人達が楽しいと思うひとときはいつだろうか? カラオケで歌っている時、クラブで踊っている時、飲んでいて騒いでいる時。考えてみると我々が楽しんでいる時は、全て無邪気な時ではないか? つまり、我々は本質的には子供なのではなかろうか? 子供に帰れば、権力、経済力、名声といったものに対し、全く関心がなくなるのではないだろうか? 子供に帰れば、スイッチ、食べ物、空気に最大の関心を持つようになるのではないだろうか?
こうして私は、スイッチ(エネルギー)、食べ物(環境)、空気(概念)といったものについて考える事を“たのしめる”ようになった。
他人から見れば、私は楽天家には映らないかもしれない。しかし、私は知りたい事があれば、一生懸命本を読んでしまうような無邪気な子供なのだ。
私は出来れば自分の中にある探究心を大事にしたいと思っている。私にとって価値があるのは、権力でも経済力でも名声でもなく、自分の中にある子供のように無邪気な好奇心である。
1997,4,8
帰ってきた
Part1
●ドープ
“一休さん”を御存じであろうか? 一休さんは、アニメのイメージとは違い、町の中を「御用心御用心」と言って歩き回り、変人や狂人のレッテルを貼られると、山にこもり、ある時、人恋しくなって再び山を降りてきたりするような人物だったようだ。私が思うに、この人は分裂症だったのではなかろうか?
面白い事に、どうやら私も分裂症のようである。私は突然“孤独を愛すモード”に突入したり、突然“人恋しく”なったり、つまり思考が分裂してしまうわけだが、皆さんに対して以前の『やまつう』における自省と謝罪の気持ちを込めて、レイオフ(一時休労)していた『やまつう』執筆を再開したいと思う。
どうやら私にとってワープロを打つという作業は、一種の麻薬のようなもので、現実から逃避し、奥深い自己陶酔の世界に逃げ込む為には、執筆という行為はかかせないもののようだ。適当な自己肯定な響きの感はまぬがれないが、執筆活動は私にとって必要な心の整理なのである。
●スケール
みなさんは自己のアイディンティティーをどのように確立しているのだろうか? 人間の人生には時間的制約があり、その期限までにどのように生きるのか? 日常生活を営む上ではこういった問題を考える事はあまりないが、ある時ふとこのような事を考える瞬間、何かつかみどころのない奥深い恐怖心を味わうものである。 自分は何をしたいのか? あるいは自分自身の存在価値は? こういった事を考えると、暗愚で孤独な自分自身に対し、人は呆然とした喪失感を味わうものである。
つまるところ人間とは、とっても無力でチッポケな存在なのだろう。ある人は「地球の中に住む俺たちなんかは、宇宙から見れば鼻毛みたいなもんだ」と形容し、更に、あまり暗い問題ばかりを深く考えずに、楽しく生きていこうと私を励ましてくれた。
例えば日本の国土が工業化社会により汚染され、100%自然が破壊されても、それは地球の陸地面積で言えば、たったの0.2%であり、日本人全員がタバコを吸ったり肉食をしたりして、肺ガンや脳卒中、心臓病などの生活習慣病で全員が死んでしまっても、それは増えつづける世界人口のたったの3%でしかない。
日本中心主義的偏向論者の古神道家のように、日本の自然や日本人のアイディンティティーに執着し、逆に自分自身を見失ってしまうようでは、本末転倒だという気がしないでもない。
頭の良い人は、放射能汚染やバイオハザード(生物公害)や環境破壊により、地球上に住む生物が絶滅しても、それも人間という愚かな種族を作ってしまった“自然現象”だと言うが、何か刹那的、怠惰的な逃げ口上のような気がしないでもないし、傲慢な自己肯定な感も否めない。
物理学者は「エントロピー(再生不可能なエネルギー)は常に最大に向かう」という物理的絶対真理に基づき、太陽が百億年後に燃え尽きれば、地球は死の星になると冷厳にも語るが、あまりにも遠い未来の話に、自分の人生との比較が出来ない。
現在の人類が抱える環境問題について考えると、やるべき事が多い割には、抜本的には何一つ解決策は打たれていないようで、絶望的な気分におちいってしまう。何かしなければいけないような気もするが、無力な個人ではどうしようもなく、「誰か偉い人がなんとかしてくれるだろう」と深く考えずに日々を生きる選択をしてしまう。
このような人間心理が超人待望論や救世主待望論を作り出してしまい、新興宗教に“はまる”人を生み出し、「世界は今病んでいます!」というエセ宗教家の叫びに、「まったくその通りだ」と感化し、“お布施”と呼ばれるものを簡単に支払ってしまう。
以前私が話をした事のある環境破壊と闘うボランティアグループの方の話だと、日本においては、環境保護団体を作ると、その会員数は千人を越す事がひとつの壁になっており、『日本野鳥の会』が会員数2千人で日本最大の環境保護団体で、大体2〜3百人というのが環境保護団体の会員数の相場なのだそうである。それに対してボランティア精神が国民に深く浸透しているアメリカなどでは、会員数が2万人という規模の団体はザラにあり、更に累進課税が日本ほど大きくないので、募金も個人の金持ちから入りやすいそうである。
面白いもので、日本のボランティアグループが常にお金にまつわる悩みを抱えているのをあざ笑うかのように、日本においては、千人などあっという間に集めてしまう新興宗教がゴマンとある。そして、その信者達は何に使われるか分からない“お布施”を支払い、日本のあちこちにとてつもない建造物が「どうしてこんな所に」という庶民の不安をよそに、山や森林を切り崩し建設されている。日本人は“おめでたい”民族なのだろうか?
“お布施”は、それを支払う人にとっては、「幸せになりたい」という個人の欲望によって支払われる。つまり自分さえ良ければ良いというエゴイズムがそこに見え隠れしてしまうのである。つまるところ新興宗教とは、この個人のエゴイズムにつけこむ商法であり、経済学者が冷静に観察すれば、これは“ビジネス”である。
新興宗教に“はまって”いる“おめでたい”信者がこれを読む事はないだろうが、この信者達に助言するとすれば、「神様、私を幸せにして」というような乙女チックで自己中心的なエゴイストに対しては、神様も手を差し伸べる事はないだろう。ましてや神様にお金を支払っても、神様も迷惑なのではないだろうか? なぜならば私の知る範囲で考えても、太陽系の中で貨幣経済を採用しているのは、“人類だけ”だからだ。それともエセ宗教家の皆さんは、神様の世界も貨幣経済を採用していると事前に信者に断わっているのだろうか?
話を地上のレベルに戻そう。 ところで、資金繰りに四苦八苦するボランティアグループを横目でみて、お金が環境保護に回らず、新興宗教や政治家のふところに入ってしまう日本に対して幻滅しても、かと言ってアメリカという国のシステムを手放しに歓迎する気にもなれないというのが私の本音でもある。アメリカでは環境保護団体が使用する通信費(切手など)は無料なのに対し、日本においては会員に送る書類の切手なども全て自腹であるし、募金も会員数と個人の金持ちの多さから日本よりも多く集まるとは言え、あなたはアメリカの方が進んでいると単純に思えるだろうか? “募金”というのは公共の利益の為に自己犠牲的に支払われるのが建前である。しかし、そこにも自尊心や虚栄心を満足させるという人間の欺瞞性(うそくささ)が見え隠れしてしまう。更に、「支払っておけば自分は貢献している事になる」というインスタントなボランティア精神も作ってしまうのである。
環境保護を訴えるコピーの入ったTシャツを販売し、パンフレットを作り、『イトーチュー』『マルベニ』あるいは原子力発電所の前に座り込んでみるのもひとつの方法論であろう。あるいは、いきなり“売れて”しまった芸能人と友達になり、熱帯雨林を買い取ってもらうのもひとつの手かもしれない。しかし、総じて言える事は、どれもとても“人間らしい”という事だ。何か根本的なブレーク・スルー(壁を壊す)というよりも、「何もしないよりかは」という活動の域を出ていない感はぬぐえない。
このような種類の活動も確かに必要なのだが、どこか空虚感ただよう現代人には、冷笑の対象となるのが目に見えている。又、一握りの拝金主義を抱く政治家や企業家にとっては一笑に付してしまう対象でもあろう。
最も必要なことは、多勢を占める冷笑主義の持ち主達の意識改革であり、“革命”である。恐らく水面下では、このような潮流も流れているのだろう。
実は貨幣経済的アプローチであるヒステリックな環境保護という名の急流と、水面下で流れるベジタリアニズムという穏流が静かに合流する事を、私はひっそりと願っている。
●フール
私は環境保護団体にお金を寄付する事は考えずに、自らベジタリアンになった。地球の健康を考え、自分の健康を考え、自ら肉食を断ち、自分の口の中に入れる食べ物を国内産の穀物と野菜にする事で、私は自分自身のアイディンティティーを確立した。
私にも寿命があり、百年後の未来の世界を知るよしもないし、『仁義』を広める為に、潔癖で妥協を許さない孔子の事を、狂人の陰者がからかったという『論語』の中のエピソードを読むと、クソ真面目な正義を振りかざす事がバカらしくなる気がしないでもないし、自分の中の良心が、不遇な人間の見栄であるかのような気もする。
しかし、例えたったの3%の日本人でも、その3%が肉食をする事によって、その肉を食べる人の10倍の人数が養える量の穀物が消費され、途上国の飢えた人達に食べ物が回らないのであれば、座視もしていられないような気もする。
私は結局のところ、批判家精神を持った隠者的思想家でいる方が良いのか? 偽善や欺瞞に満ちたものでも、何かしらの行動を取った方がよいのか? そんな自己の心の葛藤の毎日なのである。
そして、ボランティア活動には偽善がつきものだという自覚の元、真のジャーナリズム、つまり、知り、考え、伝える事が私にとってのボランティアだと考えるに至っている。
●クール
私がベジタリアニズムを意識してから8年が経ち、肉食をやめ、玄米食を始めてから5年が経った。
魚や卵を食べる事もあるが、一般の人達に比べれば、はるかに少ない量だろう。私は当然ベジタリアニズムについても深く洞察するようになったが、皆さんのベジタリアニズムに対する認識はどのようなものだろうか? ベジタリアニズムが、私の中のストイシズムから派生した事実は否定する事が出来ないが、それはあくまでも“きっかけ”だけであり、現在ではウソではなく本当に肉を食べない生活を“たのしめる”のだ。
私の確立したアイディンティティーに影響された人は、ベジタリアニズムが、動物を殺すとか殺さないとか、肉を食べるとか食べないとかの“机上の食う論”ではないという事が理解されていると思われるが、人が社会を見つめ、自然を見つめ、社会や自然と自分自身との関わりについて真剣に想いを寄せる事がベジタリアニズムだと、現在の私は考えている。
つまり、ベジタリアニズムとは平和を愛す事であり、ベジタリアンとは平和を愛す表現者なのだ。
肉を食べる人も、肉を食べない人も、みんな平和を望んでいる。違いを意識するよりも力を合わせるべきではないだろうか。
1997,4,4