帰ってきた

やまちゃんつうしん

Part2
●シナリオ
 人類は確実にカタストロフィー(破局)への道を突き進んでいる。
 当然、我々1人1人もこの破局への道を突き進む原動力となっているが、これは好むと好まざるとに関係なく、破局へのシナリオに同調しているだけであって、我々は破局へのシナリオにおいて踊らされている操り人形に過ぎない。
 私は、このような破局へのシナリオを書いた人物、つまりは諸悪の根源を作った人物が世の中に必ず存在するはずだと好奇心を働かせた。

●ホワイ
 私が未来に対し、絶望的な気分におちいっている時に、「歴史を無視する者は、歴史によって処断される」という、意味深長な言葉に出会った。
 この言葉の意味するところが当初の私には分からなかったので、未来について暗く考える事にも疲れた私は、過去の歴史を振り返ってみる事にした。
 ところで、「歴史を無視する者・・・」といっても、我々は学校教育において、誰しも歴史の授業を受けてきたはずである。ところが面白い事に、学校教育で教わる歴史は、“いつ”に“なに”が起こったかについては、眠気を誘うほどしつこく、くどくどと説明してくれるかわりに、“なぜ”それが起こったかについては、まるで説明してくれていない事に私は気づいた。
 それでは、“なぜ”現代社会のような、問題だらけのわりには何の手も打たれていないような社会が生まれたのか、歴史をひもとく事で探ってみる事にしよう。

●ベーコン
 歴史を振り返ると、4百年以上前には、どうやら地上に神は存在していたようだ。つまりは中世キリスト教の時代や、古代ギリシャ時代である。
 ところが、約4百年前に世の中で最初に神を地上から追放した人物が現われた。フランシス・ベーコンである。
 彼は、プラトンやアリストテレスといったギリシャの哲学者の言う事を、「議論好きの学問」としてあざ笑った。ベーコンにとってみれば、これらの哲学者達は、主張が派手なわりには、人類を幸福にする為の方法を何一つ行っていないという非難の対象でしかなかった。ギリシャの哲学者達は自然を観察するだけであったが、ベーコンは科学というものには、観察に“方法”が加わらなければ意味がないとした。又、世の中の現象を全て客観的に理解する事が出来れば、人類は世界を支配出来ると豪語した。

●デカルト
 ベーコンの考えに道具を与えたのが、ルネ・デカルトである。
 デカルトは世の中を解明する手掛かりは、“数字”だと、ある時ふと思いついた。彼が宇宙というものは全て“数字”で表す事が出来ると言い出した事で、混沌と堕落を繰り返すと考えられていた古代ギリシャの世界観は、非数学的であるとして否定された。ゆえに概念としてしか理解できない“神”も、非数学的であるとして地上から姿を消す事となった。

●ニュートン
 更に、世界は精巧で精密な機械であるとしたのが、アイザック・ニュートンである。
 ニュートンは全ての現象を数値で測定出来るというデカルトの用意した道具を実際に使ってみせた。ニュートンの世界観はとても無機物的であり、無色、無味、無臭な感じのする冷たいものである。ニュートンのただ単に無機物の運動を観察する行為は、現代の物質主義の元祖となった。

●ロック
 ベーコン、デカルト、ニュートン、この3人の数学的、無機物的冷たい世界観と、人間社会を結び付けたのが、ジョン・ロックである。
 つまりは啓蒙思想の幕開けであるが、ベーコンが自然から神を追放したように、ロックは人間社会から神を追放した。神は定義的には“不可知”、つまり客観的には理解できない物なので、ロックは宗教が社会の基盤になるべきではないとした。つまり、ロックはニュートンの機械的世界観を人間社会にも取り入れ、社会を感情の通わない冷たい社会に作り変えたのである。
 そして更にロックは、社会は個人が物質的富を追求する事で進歩するとも言い出した。アリストテレスなどの古代ギリシャの哲学者は、個人の物質的富を追求する事は不可能だとしていたが、ロックはそれを否定した。個人が物質的富を追求する事には限界があるような気がするが、ロックはそれは違うと言う。彼によれば、富は貨幣に置き換える事が出来、貨幣という私有財産は無限に蓄積できるとしたからだ。しかし、そうなると貨幣を多く持つ者と、少なく持つ者が現われないか、しかし、こうした疑問もロックは問題としなかった。なぜならば、社会とは勤勉でよく働く者の為に出来ており、それらの人達が富を蓄積する事は、“善”だとしたからだ。古代ギリシャでは、社会は混沌と堕落を繰り返すとしたが、ロックはニュートンが言うように、世界は始めから秩序だっており、ベーコンが言うように、それを理解すれば人間は世界を支配出来ると考えた。なぜならば人間は元々“善”であり、物質的富を追求したところで何ら問題は無いと考えたからだ。彼は“謙遜”という言葉とは無縁の人物だったようである。

●スミス
 ロックと同じく、ニュートンの機械的世界観にぞっこん惚れ込み、この世界観と経済を結び付けたのが、アダム・スミスである。
 スミスもロックのように、個々人が物質的富を追求すれば社会は進歩するが、更にその為の最も良い方法が、“自由競争”だと考えた。
 つまりは各個人が物質的富を追求すれば、社会は個人の意思とは関係なく進歩するからで、スミスはこれを“見えざる手”と表現した。スミスによれば、個人の物質的富の欲求を阻止するような政策や方法は、社会の進歩を妨げるだけであり、私利私欲を剥き出しにした人間達を放っておく事が最も良い方法だとした。人間が引力の法則を理解できても、それを支配できないように、この“見えざる手”も人間が支配できるものではないからだというのが彼の主張である。
 しかし、これでは自由放任主義的な個人の私利私欲のすすめでしかないという感をぬぐう事は出来ない。

●ダーウィン
 こうして世の中は競争社会となり、貧富の差が生まれたが、こうした人間社会を肯定するキッカケを与えたのが、チャールズ・ダーウィンである。
 ダーウィンが提唱した、自然淘汰論、適者生存の法則、弱肉強食の掟、といったものは、自然界よりも、むしろ人間社会に見られる現象であるが、これを無理やり自然界に当てはめたダーウィンの説は、当時を生きるイギリスの支配層に歓迎された。
 これ以後、競争を賛美し、世の中に気まぐれのように転がるチャンスを手にした者だけが社会の適者であるという考えが人間社会の中に広まった。
 ダーウィンは当時のコロナイゼーション(植民地拡大思想)を抱き、子孫にまで財産を残す私有財産相続制度を持ったイギリス社会を観察し、「生物が生き残るのに最も重要な事は、占有と遺伝である」と述べている。
 つまり、ダーウィンは、自説を自然観察から生み出したのではなく、時代観察から生み出したのであるが、当時のイギリス社会は、ダーウィンの説を歓迎するあまり、ダーウィン自身を観察する事を怠ってしまったようである。現在、ダーウィンの提唱した『種の起源』『進化論』を、生物学や動物学の学者だけではなく、ダーウィンの故郷であるイギリスの大英自然史博物館までもが疑問視しだしているのは、皮肉というよりも至極当然の事と言える。

●おわりのはじまり
 現代社会の基盤を作った人達は、上記のベーコン、デカルト、ニュートン、ロック、スミス、ダーウィン以外にも、彼らに影響を与えた人物や、彼らの主張を受け継いだ人物も含まれるだろう。上記にあげた人物は、あくまでも私が書店で知る事が出来る有名なビッグネームであり、ごく一部の人達である。
 紙幅の関係で、彼らがどうしてこのように考えるに至ったかについては説明できないが、本当の歴史というものは、その時代を生きた人物の背景や立場、精神状態などを把握しなければ見えてこないという事を、私は幼少期に手塚治虫氏の著作『火の鳥』から学んでいた。
 従って、学校教育で教える歴史というものに対しては、私は全て懐疑的であったし、学校教育で教える歴史というものは、現代人にとって都合よく解釈されている場合が多い事を発見し、その点に対して懐疑心を働かせて歴史を観察した結果、歴史よりもむしろ現代社会がよく理解できた。
 今日、政治家や企業家といった社会に対する影響力の強い人達の発言が、どんなに理不尽でもまかり通ってしまうのを見聞きしていると、彼らの主張がほとんどベーコン、デカルト、ニュートン、ロック、スミス、ダーウィンらの考えを引きずっている事に気付く。しかし、彼らは2〜4百年も前に生きていた人物なのだ。しかし、彼らの主張を知ると、とても現代的な響きがする事も面白い。なぜならば、目に見えない不可視的な物を一切信用しない現代の風潮はベーコンが元祖であり、成績や売上、又は生産効率等の数字が全て優先される我々の社会はデカルトの考えが元祖であり、計器やスイッチに囲まれたメタリックな質感を好む、現代人の物質偏重主義はニュートンの考えが元祖であり、貧乏人をさげすまし、金持ちに憧れる拝金主義はロックの考えが元祖であり、幼少期から勉強勉強と学歴社会を生き、とにかく他人を蹴落とす競争社会を肯定したのがダーウィンだからだ。

●インディペンデント
 上記に挙げた人達は、現代社会においては偉人視されているが、よく中身を吟味すると、彼らの主張はとても身勝手な都合の良い解釈である事が理解出来る。ところが我々は現代社会が素晴らしいものだと自己肯定する為に、彼らの功績を過去の偉業としてほめたたえている感は否めない。しかし今後、政策立案者達が、現代社会の問題を無視できなくなれば、歴史の教科書を書き直す必要に迫られる事だろう。
 ところで面白い事に、というよりも現代社会を生み出したキッカケがイギリスの産業革命にあるので仕方のない事だが、上記に挙げた人達は、デカルト以外全員がイギリス人である。それを知ると近視眼的で好戦的なイギリス人を想像し、イギリス人に対して嫌疑の念を抱いてしまうが、現代のイギリスを訪れた人に聞くと、現代のイギリスは暴力的なイメージよりも、平和を愛す人の方が多い事を実感するようだ。それはジョン・レノンに代表されるベジタリアンの平和主義者が多い事にも起因していると思う。
 その昔、牛肉と闘争を愛すイギリス人の享楽と気晴らしが、世界を支配しようとしていた事は歴史上の事実だが、アメリカ、アイルランド、インドがイギリスから独立を目指した時、その指導者達は全てベジタリアンであった。(アメリカ独立革命はベンジャミン・フランクリン、アイルランド革命はシェリー、インド独立革命はガンジー)
 皮肉な事に、植民地を拡大し、牛肉と闘争を愛していたイギリス人の子孫である、現在のイギリス人の19人に1人はベジタリアンになっている。
 イギリスのレストランではVメニューと言ってベジタリアン専用のメニューがあるし、もはやベジタリアニズムは無視出来ない社会現象となっている。現在のイギリス人は、歴史に対して自省し、自らのアイディンティティーをベジタリアニズムに求めている傾向があるようだ。

●スタート
 現在の日本人に、「あなたは神を信じますか?」と問いかければ、ほとんどの人が嘲笑するだろう。なぜならば神など存在しないからだ。もし存在すれば目に見えるはずだろう。つまりは、神を可視的に存在するかしないかという捉え方をする事が、すでに唯物的科学主義に洗脳されている証拠であり、神とは可視的な存在ではなく、概念としてとらえなければならない事が現代人には理解できないようだ。
 我々が受けてきた教育を振り返り考察すると、現代の教育とは空間や距離に重点が置かれ、質とか概念といった事はまるで論じてくれない事に気付く。
 我々は幼少期からテストの点数、通知表、偏差値といったもので能力を数値化する事に慣れ切ってしまっているし、競争社会を生きる前の段階として、数値化により子供達にプレッシャーをかける事が日常化している。学校においては、笑顔が素晴らしいとか、周りの人を幸せにしている、といった非数学的で捉えようのない事よりも、もっぱら数値化、あるいは形式化出来る事柄が評価の対象であり、それはテストの点数はもとより、おじぎの角度にまで至り、それをクリアする事が人生において最大の目標であるかのごとく教えられている。
 このように人間を数値化し、他人を蹴落とし、差別視する事に慣れ切っている子供達に対し、イジメや暴力を問題提起する大人達は理不尽極まりないのではなかろうか。つまりは問題のタネをまいておきながら、その本人達が問題に対して盲目となってしまっているのである。
 しかし、それらの大人達も、なぜ自分達が数値を重視し、質や概念について語ろうとしないのか、それを考える事はないようだ。現代社会、それに現代人は、あまりにも強くベーコン、デカルト、ニュートン、ロック、スミス、ダーウィンの考えを引きずりすぎている。
 そろそろ我々は、彼らの考えに呪縛され続けている事に気付き、宇宙は不可知で、人間を含んだ大自然がもっと神秘的である事を知るべきではないだろうか。現代の教育はその部分がスッポリ抜け落ちている。そして学校教育という名の工場から生産される人間は、自然軽視、自己中心、差別視という特徴を持つ事となる。
 つまるところ、歴史を観察すると、歴史よりも自分自身がよく理解でき、とても心痛である。我々が子孫に誇れる社会を作る為には、自省心を持って歴史に対する探索を行うべきではないだろうか。

●イメージ
 教科書を含め、現代社会が自らを自己肯定する為に、歴史上の偉人達を賞賛してきた事は上記の通りだが、勇気ある若い学者達は、歴史が人類の自己欺瞞を書きつづった物だという事を証明する為に、彼らに対して違った目を向け始めている。
 勿論、上記に挙げた人達が謀略家であったり、悪意があったわけでもないだろう。むしろ彼らは自らの提唱した考えが、必ず人類の為になるという強い信念の持ち主だったのかもしれない。
 例えば、天動説が常識だった時代に地動説を唱えていたデカルトは、自説を訴える事が身の危険を誘発する事と同義であった事であろうし、ダーウィンなどは、弱肉強食の掟という理論を打ち立てながら、自分自身は生まれつき病弱であり、ダーウィン自身が、「強者が勝つという結論を受け入れるのは、私自身まったくつらいことだ」と述べているのである。彼らの言葉からは、自己を犠牲にしても真実を語るべきだという使命感すら感じられるのである。(勿論、その使命感すらも彼らを賞賛する材料にされた訳だが)
 しかし、若い学者は、彼らの精神状態や生まれ育った環境、文化的偏見などを冷厳に検討し、今後は“正しい”理論を打ち立てようと努力し続けている。しかし、面白い事に現代のインテリ達も、過去については色々と批判の目を向けたがるが、自分達の抱く価値観については、それを拒むのである。
 ここでもう少し個人的なレベルにテーマを引き下げてみよう。歴史を観察すると、人間は新しい発見をするたびに、自然を理解したと思い上がるのだが、実は単に自分の抱くイメージを自然に当てはめていただけだという事に気付く。
 我々の人間関係においてはどうであろうか。我々は愛する人を理解したいと想い、人間関係を深めようと思うがあまり、自分のイメージをその人に押し付ける事が多い。又、逆のパターンもあり、勝手なイメージを作り上げたがあまり、嫌いな人を作ってしまったりもする。
 我々は長い間、自らのイメージと現実の世界を合致させようと努力してきた。そうした結果が現代の文明というものなのだろう。ところが、現代社会を見渡し、様々な問題を見るにつれ、これらの努力が間違っていたのではないだろうかという想いに現在の私はかられている。
 我々の未来には2つの選択肢がある。それは自らのイメージと現実の世界をひたすら合致させようとする生き方と、自らのイメージは押し付けず、自然と共存する生き方である。前者は傲慢な生き方であり、後者は謙虚な生き方である。ところが、我々は新しい発見を賞賛し、現代文明を肯定してきたあまり、自然と共存する生き方については、まるで無知のようだ。我々が今後も自らのイメージを自然に当てはめようと努力するならば、何かは得られても、何かを失わなければならないだろう。
 私が何を訴えたいかと言えば、人類は自らのイメージする未来を作る為に、未来を作る源まですっかり使い果たそうとしているのが愚かだという事だ。我々はオゾンホールの修復の仕方は知らないし、放射性核廃棄物の処理の仕方も知らないし、絶滅した動物を生き返らす事も出来ないのである。ところが、こんな分かり切った事すら信じ込みたがらない人達が多い事に私は驚きを隠せない。
 歴史を観察すれば、我々の抱く価値観や世界観は、まるで気まぐれのように偶発的に生まれた一過性のものだという事に気が付き、今後、新しい価値観や世界観を築く事への抵抗感を減らす事だろう。
 尊敬すべき有識者によれば、今後15年ないし20年後には世界的なエネルギー危機と食糧危機がやってくるのである。その時に唯物的科学技術万能主義者達は、科学は万能ではなく無能だと気付き、拝金主義者達はお金がどんなにあっても買うべき品物がなくなる現実を前に呆然とするだろう・・・。
 つまり歴史を無視する者は歴史によって処断される事になるのである。

 
1997,7,3

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